思いを寄せること、他人でいること

3月4日と5日の2日間、NHKでは南海トラフ巨大地震をテーマにしたドラマを放映した。

一度は地震学を志した者として、あるいは職業柄、見ておくべきとは思っていたものの、録画予約を忘れていたため、NHKプラスで視聴した。

 

しかし、私は全編を見ることはできなかった。

東日本大震災を思い出してつらいと思ったからである。

 

もちろん私は当時九州にいた人間であるから、東日本大震災を体験した当事者ではない。

それにもかかわらずつらい思いをするのは何故なのか。

 

震災から4年目の春、私は宮城県の住民となった。

そこでは震災の爪痕を目の当たりにしたり、余震を経験したりすることも多く、震災を肌身では何も感じていない傍観者でいることは、もはやできなくなっていた。

4年間だけではあるが宮城で過ごしたという事実もあってか、私は復興に向けて歩んでいく被災地に少しでも思いを寄せていたいという気持ちを持つようになり、宮城を離れた後も定期的に東北を訪れる機会を設けたり、たまに震災に関連する書籍を読んだりしている。

 

わたしは今、災害にどう対応するかが問われる仕事をしている。そんな中、たかだかと言ってはなんだが、ドラマとしての災害の描写すら受け止めきれなかったことを通じて、当事者ではない立場において、思いを寄せることと同時に他人でいることも必要なのかもしれないと考えた。

他人の悲しみや苦しみに寄り添うことは必要だが、それに引きづられて自分も何もできなくなってしまったのでは、その人を支えていくことはできないからである。

うつ病の患者を思うあまり、周りの人まで疲弊してしまう、といったケースもあると聞くが、それでは共倒れなのである。

 

優しさとは強さである、とよく言うが、おそらくそれは本当である。

自分が強くなければ、他人に優しく接することはきっと難しい。

私にはまだまだ強くなる余地があるのだろうと知った。

 

あの日から12年が経過しようとしている。